2012年03月10日
明治村こぼれ話し
みなさま、こんにちは。
週末の午後をいかがお過ごしでしょうか?
自分は探検隊に出撃できずにモヤモヤしています。
まぁ、だからこそブログを更新できるわけですがw
今日はサバゲー仲間のしゅー君が教えてくれたブログの中で明治村にある施設が現役で使われていた時にあった良い話しが載っていたのでその話を紹介したいと思います。
その施設はこちら↓

以下コピペ
■日本での「忘れがたい経験」■
1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、満洲に1週間、中 国に10日間、
日本に2週間滞在して「ピッツバーグ・クリ ア」紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載した。
デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に「いかにも典型的なアメリカ白人女性」
がさも当然であるかのように彼の前に割り込んだ。
ホテルのフロント係は女性の方を見向きもせずにデュボイスへの対応を続けた。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をしそれからやっと、その厚かま しいアメリカ女性の方を向いたのだった
フロント係の毅然と した態度はこれまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感させた。
「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個 人を日本人は心から歓び迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が「同じ有色人種で あり、同じ苦しみを味わい、
同じ運命を背負っている」こ とを、心から理解してくれているのだ。[1,p109-118]
コピペここまで。
今からは考えられない事ではありますが、アメリカで公民権法が制定されるまで公の場で平然と人種差別が行われていました。
また、公民権法が制定され、世界でも人種差別は悪いとされている今でも少なからずその様な悪習が残っている地域があると聞きます。
その公民権法が制定されたのが1964年。
自分は40歳のおっさんですが、何とおっさんが生まれる僅か七年前の話し。
その公民権法が制定される28年前の昭和11年に帝国ホテルのスタッフを始め、当時の日本人には”肌の色で人を差別する”と言うバカバカらしい人種差別は無かった様です。
もっとも、はるか昔から海外からの良い物は取り入れ魔改造をしてきた民族なので下らない偏見は無かった見たいですが・・・。
同じブログに載っていた話をおまけで追加。
こっちは明治村は全く関係無いですが、ご了承ください(^_^;)
以下コピペ
素晴らしいメンバーを従えてアート・ブレイキーが 初めて羽田空港に降り立ったのは1961年元日の夜10時のことだった
機内から外へ出た瞬間にブレイキーが目にしたのは花束を持ちこちらに向かって熱狂的に手を振っている 無数の若者達。
彼はいったい同じ機にどんな有名人が乗っていたのだろうと思ったのだがこれが実は自分達を歓迎するファンの渦だと知ったとき彼の目からは大粒の涙があふれた。
熱狂ファン「ミスター・ブレイキー!お願 いがあります。」
ブレイキー「何だい?」
熱狂ファン「僕と一緒に写真を撮って下さいませんか?」
ブレイキー「は?本気か?」
熱狂ファン「もちろんです!是非、是非お願いします。」
ブレイキー「俺は黒人だが・・・そんな俺と同じ写真に写っていいのかい?」
熱狂ファン「そんなこと知ってますよ。是非お願いします。記念にしたいんです。」
ブレイキー「俺は黒人だぜ。本当にいいのか?」
アフリカン・アメリカンとして、常に差別を意識せざる得ない状況の中で生きてきたブレイキーにとって、この、彼 らへのただ手放しの歓迎ぶりは、にわかには信じられないことだったのだ
コピペここまで。
このアート・ブレイキーと言う方はジャズ・シーンでは超☆メジャーな方で様々なジャズメンを育てたり影響を与えてきた方見たいです。(ググったら沢山出てきてマジでビビった)
そんな方でも下らない人種差別をされていた事に驚きです。
謂れの無い差別をする事で偉大なジャズメンを陥れて何が楽しかったのでしょうね?
この話は1961年、公民権法が制定される3年前でおっさんが生まれる10年前の話です。
世界的に”人種差別を無くそう”と言い出したのは意外とつい最近の事で驚かされますが、世界が”人種差別を無くそう!”と言い出す遥か前から人種差別をしていなかった先人に驚きも感じます。
願わくば、先人の意思を受け継ぎ後人達に伝えられる事を祈って日記を締めます。
それでは、良い週末を。
週末の午後をいかがお過ごしでしょうか?
自分は探検隊に出撃できずにモヤモヤしています。
まぁ、だからこそブログを更新できるわけですがw
今日はサバゲー仲間のしゅー君が教えてくれたブログの中で明治村にある施設が現役で使われていた時にあった良い話しが載っていたのでその話を紹介したいと思います。
その施設はこちら↓

以下コピペ
■日本での「忘れがたい経験」■
1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、満洲に1週間、中 国に10日間、
日本に2週間滞在して「ピッツバーグ・クリ ア」紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載した。
デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に「いかにも典型的なアメリカ白人女性」
がさも当然であるかのように彼の前に割り込んだ。
ホテルのフロント係は女性の方を見向きもせずにデュボイスへの対応を続けた。
勘定がすべて終わると、彼はデュボイスに向かって深々とお辞儀をしそれからやっと、その厚かま しいアメリカ女性の方を向いたのだった
フロント係の毅然と した態度はこれまでの白人支配の世界とは違った、新しい世界の幕開けを予感させた。
「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個 人を日本人は心から歓び迎え入れてくれた。
日本人は、われわれ1200万人のアメリカ黒人が「同じ有色人種で あり、同じ苦しみを味わい、
同じ運命を背負っている」こ とを、心から理解してくれているのだ。[1,p109-118]
コピペここまで。
今からは考えられない事ではありますが、アメリカで公民権法が制定されるまで公の場で平然と人種差別が行われていました。
また、公民権法が制定され、世界でも人種差別は悪いとされている今でも少なからずその様な悪習が残っている地域があると聞きます。
その公民権法が制定されたのが1964年。
自分は40歳のおっさんですが、何とおっさんが生まれる僅か七年前の話し。
その公民権法が制定される28年前の昭和11年に帝国ホテルのスタッフを始め、当時の日本人には”肌の色で人を差別する”と言うバカバカらしい人種差別は無かった様です。
もっとも、はるか昔から海外からの良い物は取り入れ魔改造をしてきた民族なので下らない偏見は無かった見たいですが・・・。
同じブログに載っていた話をおまけで追加。
こっちは明治村は全く関係無いですが、ご了承ください(^_^;)
以下コピペ
素晴らしいメンバーを従えてアート・ブレイキーが 初めて羽田空港に降り立ったのは1961年元日の夜10時のことだった
機内から外へ出た瞬間にブレイキーが目にしたのは花束を持ちこちらに向かって熱狂的に手を振っている 無数の若者達。
彼はいったい同じ機にどんな有名人が乗っていたのだろうと思ったのだがこれが実は自分達を歓迎するファンの渦だと知ったとき彼の目からは大粒の涙があふれた。
熱狂ファン「ミスター・ブレイキー!お願 いがあります。」
ブレイキー「何だい?」
熱狂ファン「僕と一緒に写真を撮って下さいませんか?」
ブレイキー「は?本気か?」
熱狂ファン「もちろんです!是非、是非お願いします。」
ブレイキー「俺は黒人だが・・・そんな俺と同じ写真に写っていいのかい?」
熱狂ファン「そんなこと知ってますよ。是非お願いします。記念にしたいんです。」
ブレイキー「俺は黒人だぜ。本当にいいのか?」
アフリカン・アメリカンとして、常に差別を意識せざる得ない状況の中で生きてきたブレイキーにとって、この、彼 らへのただ手放しの歓迎ぶりは、にわかには信じられないことだったのだ
コピペここまで。
このアート・ブレイキーと言う方はジャズ・シーンでは超☆メジャーな方で様々なジャズメンを育てたり影響を与えてきた方見たいです。(ググったら沢山出てきてマジでビビった)
そんな方でも下らない人種差別をされていた事に驚きです。
謂れの無い差別をする事で偉大なジャズメンを陥れて何が楽しかったのでしょうね?
この話は1961年、公民権法が制定される3年前でおっさんが生まれる10年前の話です。
世界的に”人種差別を無くそう”と言い出したのは意外とつい最近の事で驚かされますが、世界が”人種差別を無くそう!”と言い出す遥か前から人種差別をしていなかった先人に驚きも感じます。
願わくば、先人の意思を受け継ぎ後人達に伝えられる事を祈って日記を締めます。
それでは、良い週末を。
明治探検隊Ⅶ 感想と解答とおもひで編
明治探検隊Ⅶ ~泣いても笑っても明後日まで~
明治探検隊Ⅶ王の秘宝に行って来ました!①
春と共に”あの”イベントが始まります・・・!
明治探検隊Ⅵに挑戦してきました!
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